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by your side

後悔するのは、人間という生き物だけである。

 すなわち、猫は後悔しないのだ、と。

 いつ、どこで読んだ評論文だったかは、よく覚えていない。壁の中にいる時だったのか、はたまた西ブロックに来てからこの部屋で見つけたのか。

 自分の状態は思い出せないのに、読んだ内容だけははっきりと覚えている。それをふと、思い出した。なぜか。

 ――たぶん、ネズミが『後悔していないのか?』なんて尋ねてきたせいだ。

 四年前の行動なら、当時の自分にできる範囲での適切な処置だったと思っている。この間NO.6から逃げ出したときだって、ネズミについていくことにためらいはなかった。そんな余裕もなかった、という方が正しいかもしれないが。

 仮に悩んでいたとしたら、あのときの自分は、IDカードを捨てていなかっただろう。

 つまりは、そういうことだ。

 どんな状況に陥ろうとも、ネズミがいるのならば。

 それが、ぼくのすべてなのだ。

 紫苑は紫苑なりに、己の気持ちを表現してきたつもりだった。……チンパンジー以下だとか、さんざん馬鹿にされたけれど。

 それなのに、ネズミときたら。今さら『後悔していないのか?』なんて。たとえ『退屈しのぎの戯れだ』と言われても、それをまるきり信じ込むことはできなかった。

 紫苑にはなんとなく、あれがネズミの心からの質問だったような気がしたからだ。

 ネズミはもとから、紫苑の話を聞いているようで、まるで聞いていないことが多々あった。もしくは、全く聞くそぶりを見せないこともある。

 そんな彼に対しては、稚拙だと馬鹿にされた紫苑の語彙力を総動員したところで、何も伝わっていないのだろう――だから、唇を重ねた。

 とっさの行動だった。理屈ではなかった。自分でもよくわからないまま、勝手に体が動いていた。

 それが適切だったかどうかは、わからないけれど。

 少なくとも後悔はしていないし、間違ったことをしたとも思っていない。

 ――じゃあ、ネズミは?

「……紫苑、あんたさっきから何身じろぎしてるんだ」

「わっ」

 不意に名前を呼ばれて、思いきり体が跳ねた。

 言われたそばから身じろぎをして、隣で寝転がるネズミの様子をうかがう。

「ごめん、起こした?」

「まだ一睡もしていない。昨日だって早起きさせられて、くたくたなのに。誰かさんのせいで」

「ご、ごめん……」

「謝るくらいならさっさと寝ろよ。それとも」

「それとも?」

「眠れない坊やのために、子守唄でも歌ってあげましょうか?」

 女の声色だった。からかわれている。

「……きみの歌声は聴きたいけど、今は、いい」

「金を払ってまで聴きたいやつが山ほどいるってのに、贅沢だな」

 寝不足で機嫌が悪いのかと思ったら、そうでもないらしい。相変わらず言葉は刺々しいのに、その言い方は柔らかかった。少なくとも、怒ってはいない。むしろ、紫苑をからかうことを楽しんでいるような、愉快そうな声だった。

 妙だな、と思った。ひとつだけ思い当たった可能性を、そのまま口にしてみる。

「……ネズミ、もしかして」

「うん?」

「きみも眠れないんじゃないのか。その、ぼくのせいとかじゃなくて」

 あれほど饒舌だったくせに、途端に黙り込んでしまう。図星だったということだろうか。

 しばらく沈黙の時間が続いた。小ネズミたちはすっかり夢の中なのか、物音一つしない。暗闇にも目が慣れて、物の輪郭がだいぶはっきりとしてきた頃、ネズミの瞳がちらりとこちらを見た。

「……そうだな、今のあんたのせいではない。どちらかというと、昨日のあんたのせいだ」

「は、何?」

「またあんたが出ていくんじゃないかと思って」

 本気なのか冗談なのか、どちらとも言えない声だった。

 どちらであっても、紫苑はありのまま受け取ることしかできない。

「もうしないって、言ったろ。誓ったじゃないか」

「どうだかな」

 ネズミが目を閉じる。どうしたって、本音を打ち明けるつもりはないらしい。

「……ぼくはてっきり、おやすみのキスがないと眠れないのかと思った」

 言った瞬間、毛布の下で思いきり足を蹴られた。

「痛っ! 何するんだよ!」

「ごめん、寝相が悪くて」

「絶対にわざとだ!」

「あんたが馬鹿なこと言うからだろ」

 自分だってさんざん紫苑をからかうくせに、いざ紫苑がやり返してみれば、これだ。いくらなんでも理不尽すぎる。

 思わず上半身を起こした紫苑に、ネズミが「寒い。起きるなら毛布よこせ」などとまた勝手なことを言う。そう簡単に奪われては困る、と毛布を掴みつつ、何の気なしにその顔を見た。

 思いのほか真正面から視線がぶつかって、ほんの少しだけ、沈黙が生まれる。

 それを破ったのは、毛布を奪うことを諦めたらしいネズミだった。

「あんたこそ、なんで夜更かししてたわけ?」

「きみのせいだ」

 迷わず答えると、ネズミの表情が険しくなった。

「は? なんで?」

「昨日言っただろ、後悔していないのかって。ぼくは後悔していないけれど、もしかしたら、きみは後悔しているのかもと思ったんだ」

 紫苑も毛布を引っ張ることはやめて、大人しくベッドへ横たわる。ネズミは仰向けになって天井を見つめたまま、動かない。息すらも詰めているようだった。

 そうして黙り込むネズミの横顔は、相変わらず美しかった。

「……おれには、後悔なんてする資格、ないんだよ」

 紫苑から目をそらしたまま、ぽつりぽつりと話し始める。

「命の恩人であるあんたを助ける――それ以上でも、それ以下でもないんだ。ほかの理由や感情なんて、一切必要ない」

 やはりそこに、ネズミの感情は見えない。

 決して満足のいく答えではなかったが、彼が築き上げてしまった壁を崩す方法が思いつかなかった。

「……でも、ときどき思うことはある」

 思案し続けたまま黙る紫苑を見かねたのか、はたまた最初から言うつもりだったのか。

 ネズミがようやくこちらを見て、おもむろに手を伸ばしてきた。

「何を?」

 すらりと長い指が、紫苑の髪に絡む。

「あんたと出会わなければよかった――そう思う日が来るかもしれないな、って」

「……っ」

 息が、止まった。

 今までで一番、反応に困る言葉だった。

 それなりにショックを受けたし、悲しかった。できることなら今すぐ否定したかった。でもそれはあくまで紫苑側の意見に過ぎない。

 いくら紫苑が、ネズミと出会えてよかったと思ったとしても。ネズミにとって、それは後悔になりうることなのかもしれない。

「……あのさ、そんな顔しないでくれる」

「えっ」

 呆れたように言われて、我に返った。思わず額を押さえる。

 自覚がなかったせいで、余計に恥ずかしい。

「ぼく、そんなに変な顔、してたのか」

「今にも泣き出しそうだったけど」

 目元を擦ってみた。何も流れてはこない。目頭が熱くなる感覚もない。もしかして、またからかわれた?

 ネズミの指がつうと滑って、頬の上に落ちてきた。そのまま、痣のあたりを撫でられる。

「あんたに会わなきゃよかったって、何も、全部が全部悪い意味ってわけじゃない。それこそ、あんたに会わなきゃおれは今ごろ土の中だ」

「縁起でもないこと言うなよ」

「事実だろ」

 いつの間にか、ベッドの中でネズミと向かい合うような体勢になっていた。ふと顔をあげてみれば、こちらをまっすぐ見つめる灰色の瞳と視線がかち合う。

 ネズミが、深く息を吸いこんだ。

「ただ、あんたと出会っていなければ……」

 今にも消え入りそうな声だった。

「……え? よく聞こえない」

 思わず聞き返した紫苑に、ネズミが大きく息を吐き出す。ため息ではなく、ほっと安堵したような息だ。

 灰色の瞳が、ゆっくりと瞬いた。

「別に、大したことじゃない。ていうか、さっきも似たようなことを言った。それで十分だろ」

「えっ。いつ、どれのことだよ」

「それくらい自分で考えろ。その無駄に優秀な頭を、たまには有効活用するんだな」

 おれは寝るから。

 そう言ってネズミが寝返りを打つ。向けられた背中は、やけに素っ気ない。

 紫苑も毛布をかけ直しながら、仕方なく、同じように背を向けた。

 彼の言葉を信じるならば、先ほどまでの会話の中に答えはあるということになる。

 紫苑と出会わなければよかった、と感じること。ネズミはほんとうに、そのようなことを口にしただろうか。

 常日頃から理不尽な文句を言われているせいか、はたまた演技が上手いせいか、いつもと様子が変わったようには思えなかった。

 ――ほんとうに?

 ほんとうにネズミは、いつもと様子が変わらなかった?

 すっかり暗闇に慣れきった目が、視界の端にソファーを捉える。昨日、彼に口づけた場所。

 ――いや。彼は確かに、言ったはずだ。

 彼の言葉を、ひとつひとつ思い出す。彼の仕草や表情まで、すべて。

 それでようやく、妙だな、と感じ始めた瞬間を、思い出した。

 嘘か本音か、よくわからない言葉。

 あの時はそれほど気にも留めなかった言葉。

 ネズミらしくないと思ったからこそ、こちらも冗談で流してしまった言葉。

『またあんたが出ていくんじゃないかと思って』

 ……でも、それがどうしたというのだろう。

 ぼくが出ていくかもしれない。そう思うことが、どうして後悔に繋がるんだ?

 朝起きたら尋ねてみようか。いや、きっとまた呆れられて、馬鹿にされるに決まっている。わからないことを人に尋ねるのは、そんなに悪いことだろうか。自力で辿り着けない答えについては、諦めろとでも言うのだろうか。

 ああ、また。ほんのわずかでもきみのことを知れる、掴むことができる、なんて思ったら、これだ。深い深い森の中で、迷子になってしまう。

「……ぼくはもう、勝手にいなくなったりしないよ。ネズミじゃあるまいし」

 ため息の代わりに、自然とそう漏らしていた。あまりにも小さなひとりごとだったから、ネズミに届いたかどうかはわからない。

 少しずつぼやけてゆく世界の中で、背中越しに聞こえるネズミの寝息は、とても穏やかだった。


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