穏やかに(下)
もとは立派な建物だったであろう廃墟。
周囲には何匹もの犬が居て、地面に伏せて眠っていたり、数匹が集まってじゃれ合ったりして過ごしていた。
不意に伏せていた犬の耳がピクリと動き、うっすらと目を開ける。
少し遅れて他の犬たちも動きを止め、顔を上げた。
警戒しているわけではない。 だが、どことなくそわそわしているような。
「どうした、お前ら」
階段の上から現れたのは、もちろんイヌカシだ。まだ遊びたい盛りの若い犬を連れて下りていく。 その頃には廃墟に近付いてくる人影も見えてきた。
「あれ? 紫苑、どうしたんだ? 今日は犬洗いの仕事は頼んでなかったよな」
突然の来訪にイヌカシは驚いた。
犬たちが歓迎するように擦り寄ってくるのを、紫苑はそっと撫でてやる。
何度か犬たちを洗う手伝いをしてもらっていたが、今日はなにもなかったはずだ。
「やあ、イヌカシ。今日は・・・・・・」
「おいおい、おれには挨拶もなしか」
「紫苑と違って、お前は歓迎してないからな。で、なんの用だ?」
イヌカシが嫌そうに顔をしかめて言い返す。
「髪を切りたいんだけど、ネズミのところにはハサミがなくて。貸してもらえないだろうか」
「なんだ、そんなことか。いいぜ。今持ってきてやるよ」
ハサミを借りに来た二人以上に長い髪をひるがえして、イヌカシは建物へと戻っていった。
真っ青な空を見上げて紫苑は目を細める。
「いい天気だな」
薄暗い室内よりも太陽の下のほうが明るいのは当然で、もちろん姿見の鏡なんて貴重なものがあるわけもなく。
ならばと、外で散髪することしたのだ。
木製の華奢な椅子を運ぶだけで準備は終わりである。
「相変わらず能天気だな。さあ、どうぞ。こちらへお座りください、陛下」
慇懃に促されそれでも大人しく紫苑が椅子に座ると、ハサミを持ったネズミがその後ろに立つ。 なんとはなしに見ていたイヌカシだったが、ふと思いついて口を開いた。
「なあ、紫苑。切った髪、おれにくれないか?」
「髪? そんなものどうするんだ?」
「紫苑の髪、綺麗だから売れば結構いい金になると思うんだよな。ほら、人形とかに使うとかさ」
なるほどと思っていたら
「だめだ」
紫苑が了承する前にネズミが答えた。
「なんでだよ! おれは紫苑に聞いてるんだ」
「そう吠えるなよ。考えてもみろ、見知らぬ他人が自分の髪を持ってるんだぞ」
「それがなんだよ!」
ネズミはやれやれと大げさに頭を振り、聞き分けのない子供に言い聞かせるように優しげな笑みを浮かべる。
「もしも、だ。自分の一部が知らないジジイの手に渡ったとしたらどう思う。あんたは人形だなんだって言ってるが、そんなもの欲しがるのは裕福な変態ばっかりだぜ」
「うっ、それは・・・・・・」
「そもそも髪ってのは、昔から霊力が宿るって言われてる。呪術にも用いられるし、使いようによっては……。それが本来の用途に使われる保証もないのに、気安く渡せると思うか? 第一、気色悪い」
吐き捨てるような言葉にネズミの本気の苛立ちが見えて、イヌカシは顔を青くする。
怒らせると恐ろしい目に合うのは身をもって知っている。
「お、おれが悪かったよ! ただ、綺麗だなって思って。それで」
「ありがとう、イヌカシ。けど、ネズミの言う通り、止めたほうが良いかもな」
「うん」
素直に頷けば、皮肉気な笑いが飛んでくる。
「それに、売れるほど切るわけじゃないしな」
ネズミは紫苑の透き通るような髪を引っ張り、容赦なくハサミを入れた。
けれど、切り落とされたのはほんのわずかだ。
もちろん、人形に使うほどの長さに足りるはずもなかった。
「さ、先に言えよな!」
イヌカシの叫び声が空に響く。
くつろいでいた犬たちが何事かと飛び起き、三人の周りを跳ねまわる。
それがなんだかおかしくて。
三人は声を上げて笑った。
そこに誘われるようにまた一人。
「なんだなんだ、楽しそうだな。お前たち」
「力河さん、こんにちは」
「よお、紫苑。元気そうでなによりだ。って、イヴに髪を切らせてるのか? おい、紫苑の顔に傷の一つも付けてみろ! 俺が黙っちゃいないからな!」
「うるさいぞ、おっさん。あんたのせいで手元が狂っちまうかもしれないな」
「なんだと!」
そんな軽妙なやり取りも楽しく。
紫苑たちは笑った。
それは、穏やかなある日の出来事。